井深大の33名言 1件から25件までを表示
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井深 大(いぶか まさる、1908年4月11日 - 1997年12月19日)は、日本の電子技術者および実業家。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。
栃木県上都賀郡日光町(現:日光市)に生まれる。親戚に飯盛山で自刃した白虎隊士井深茂太郎[1]がいる。2歳の時[2]、青銅技師であった父親の井深甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父の井深基に引き取られる。
母と共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現:安城市立安城中部小学校)卒業。 のちに再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現:中央区)に転居。兵庫県立第一神戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部卒業。学生時代から奇抜な発明で有名であった。卒論は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
東京芝浦電気(現:東芝)の入社試験を受けるも不採用。大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)[3]に入社。学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。のちに日本光音工業株式会社に移籍。その後、日本光音工業株式会社の出資で、日本測定器株式会社を立ち上げ、常務に就任。 日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
敗戦の翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2ヵ月後の1945年(昭和20年)10月、東京 ・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立上げる。のちに朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。
以来、新しい独自技術の開発にチャレンジし、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。