ジネディーヌ・ジダンの1名言 1件から1件までを表示
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ジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane 発音例、1972年6月23日 - )は、フランス国籍の元サッカー選手。「ジダヌ」と表記されることもある。現在は現役時に所属したレアル・マドリードのスポーツディレクターを務める。
1990年代後半から2000年代前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられた名選手[1]で、クラブ・代表を通じて攻撃的ミッドフィールダーのポジションで活躍。高いテクニックとボールコントロール、キープ力などから宇宙人とも称され[2]、FIFA最優秀選手賞3度、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、ワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて制覇。FIFA100選にも名を連ねている。UEFAゴールデンジュビリーポールからは、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて欧州における過去50年(1954年~2004年)で最も優れたサッカー選手に選ばれた[3]。
アルジェリア移民2世のカビル人で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育った[4][5]という自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた人気を誇っている[6][7]。両親はアルジェリア国内でも少数民族であるベルベル人であるため、母国語であるフランス語以外にベルベル語も話せる。また夫人がスペイン系フランス人であり、スペイン語にも不自由しない[8]。
ジダンの両親は、アルジェリア戦争が勃発する少し前の1953年にアルジェリアからパリへ移住。1968年にパリからマルセイユへ引っ越した。そこで4男1女の5人兄弟の末っ子として生まれたジダンは、キャプテン翼の影響でサッカーを始め[9]、友人とのストリートサッカーでサッカースキルを磨いた。子供時代は父親の影響で柔道もしており[10]、11歳の時に茶帯を取得した[11]。当時、ジダンはオリンピック・マルセイユのファンであった。
9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしばプロヴァンス地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった[12]。14歳の時に参加したエクス=アン=プロヴァンスでの3日間のトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した[13]。
家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた[10][14]。翌シーズン、ジダンはリーザブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた[15]。3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。1991年年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された[16]。1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍[17]。